1950-04-13 第7回国会 参議院 法務委員会 第25号
渡邊年之助、計十五万、三、四回、直接。降旗氏外、十二、三万、西森を通じて。」降旗氏外の後七字が読めません。「支拂い。増田甲子七、計六十万、その下に、これは六十万から八十万という意味です。最初は渡邊良夫氏の紹介で丹羽、岡崎両氏来社され、増田氏を後援して呉れとの依頼により、丹羽、岡崎両氏に(増田氏後援の意味で)渡し、二回目以後は、前述のような意味で来られましたので、それも両氏に渡しました。」
渡邊年之助、計十五万、三、四回、直接。降旗氏外、十二、三万、西森を通じて。」降旗氏外の後七字が読めません。「支拂い。増田甲子七、計六十万、その下に、これは六十万から八十万という意味です。最初は渡邊良夫氏の紹介で丹羽、岡崎両氏来社され、増田氏を後援して呉れとの依頼により、丹羽、岡崎両氏に(増田氏後援の意味で)渡し、二回目以後は、前述のような意味で来られましたので、それも両氏に渡しました。」
それで先程申上げましたけれども、最初の時渡邊年之助さんを紹介したこともあります。この問題は現在捜査中のことですから、それから先のことは成るべく言いたくないと思つております。
佐藤ならいいだろうと向うは思つたと思いますが……、それで来られまして一応紹介してくれんかということで、私としては直接知りませんものですから、じや一つ渡邊年介助さんに話して貰つて若し知つていたら紹介して貰つたらどうかということで、渡邊さんを吉武君に紹介しましたが、その後のことは私分りませんから申上げることはできませんが、そこまでは……。
次にこの渡邊年之助の関係でありますが、昭和二十二年春頃から二十四年初め頃にかけまして合計十一万円を贈つております。これは知合になつたという関係は、二十二年の春頃に福家俊一氏に紹介されておるということであります。次に渡邊良夫の関係でありますが、二十二年の春頃に福田篤泰の紹介で知合つて、当時合計二十万円を贈つております。
それから第二に岡田秀男との交際、金品授受、会食、商品の納入、知事に紹介等、第三に東舜英、渡邊年之助、渡邊良夫、江花靜との間の金品授受、第四に福田篤泰との間の金員授受、その使途、吉田茂氏との関係、小切手の受取人、吉田氏大磯私邸訪問の事実、第五岡崎英城、丹羽喬四郎との知合関係、金員授受、その使途、会食関係、第六増田甲子七氏との知合交際関係、増田氏より礼を言われた経過、第七藤井孝との知合、交際関係、昭電事件前後
十万円を渡し、残余の四十万円は河合義一、佐成篤三郎、山本幸一、近藤壽、大川修三、松澤隼人、水野貿郎、水野實郎、山本富嘉、佐伯健、光吉悦心、本藤恒吾、米田富の十二君に各五千円、徳永正報、熊本虎藏、原虎一、赤松常子、三木治朗、佐竹晴記、永江一夫、細野三千男、正木清、米山久子、松本淳造、加藤鐐造、松永義堆、井堀繁雄、門司亮、土井直作、和田操、井家上專、山名義鶴、叶凸、大矢省三の二十一君に各一万円藤田覗、渡邊年之助
○渡邊(年)政府委員 賃金の安定措置の問題について御答弁申し上げます。先般來賃金の安定に関して政府においていろいろ考究されておるかのごとく新聞に出ておりますが、最高賃金をきめて統制を行うとか、あるいは平均賃金をきめて賃金の直接的な統制を行うとか、こういうようなことはまだ具体化しておりません。
江崎 真澄君 尾崎 末吉君 栗山長次郎君 綱島 正興君 島上善五郎君 館 俊三君 前田 種男君 山花 秀雄君 小林 運美君 佐伯 宗義君 西田 隆男君 大島 多藏君 河野 金昇君 木村 榮君 出席政府委員 経済安定本部労 働局長 渡邊年之助君
松永義雄、埼玉、四月十一日一万円、井堀繁雄、埼玉、四月十一日一万円、門司亮、神奈川、四月十一日一万円、土井直作、神奈川、四月十一日一万円、和田操、群馬、四月十三日より二十日ごろまで一万円、井家上專、京都、四月十三日より二十日ごろまで一万円、山名義鶴、兵庫、四月十三日より二十日ごろまで一万円、叶凸、大阪、四月十三日より二十日ごろまで一万円、大矢省三、大阪、四月十一日二万円、藤田覗、東京、四月十一日二万円、渡邊年之助
長野重右ヱ門君 山崎 岩男君 青木 孝義君 淺利 三朗君 磯崎 貞序君 小峯 柳多君 西村 久之君 船田 享二君 野坂 參三君 出席國務大臣 内閣總理大臣 片山 哲君 大 藏 大 臣 栗栖 赳夫君 國 務 大 臣 和田 博雄君 出席政府政員 總理廳事務官 渡邊年之助君
種男君 山花 秀雄君 寺本 齋君 山下 春江君 石田 博英君 江崎 真澄君 倉石 忠雄君 河野 金昇君 出席國務大臣 逓 信 大 臣 三木 武夫君 勞 働 大 臣 米窪 滿亮君 出席政府委員 經濟安定本部副 長官 永野 重雄君 總理廳事務官 渡邊年之助君